勉強の哲学①
昨日は寝落ちした。この時間必ず眠くなるのそろそろヤバいな。どの教科やってても眠いものは眠い。
最近あんましライン来なくて淋しい。サボった日も2件しか来なかった。
受験生ラインなんて来ない方が健全なんだけど。
倫理の先生に勧められた、千葉雅也『勉強の哲学』を読んでいる。
学校は嫌なら休んでも良いと教えないのは洗脳の一種だし、マゾヒズムの押しつけだと気付いたのは結構最近(不登校で引きこもるのはまた別の話)。
人には合う環境/合わない環境があって、尖った思春期のオオカミの群れに、学校生活に向かない子を収容しておくのは本人にとっては地獄だ。
僕たちは(嫌々ながらも)毎日に学校に行ってる以上、たとえ辛くてもその環境にある程度依存、適応し、楽しみを見出している(マゾヒズム)。
しかし、僕の場合は心を押し殺して3年間耐えて来れたが、全員が全員耐えきれるはずは無い。
心のコップが一杯になってもそこから逃げてはいけないと教える(洗脳する)のが「働きすぎる日本人」の育成に一役買ってることは間違いない。
スポーツ界の明らかに過剰な「根性論」が見直され始めたのはいい風潮(当然?)だが、根性論的な教師が消えない限り、従順な歯車すぎる僕たち日本人の性格は当分変わらないだろう。
教師が立場上サボれと言えないのは仕方ないが、自分が親になったら、子供にはちゃんと教えようと思う。自分で気付くべきことかもしれないけど。
僕の話に戻すが、僕は今3年間でみっちり培った「イカ東コンプレックス」に縛られている。
(ここら辺については前川ヤスタカ「勉強できる子卑屈化社会」が詳しい。)
高2まで校外活動に軸足を置いていた僕は、趣味を引退して学校に向き合った時初めて、カースト下位の生きにくさに気付いた。
共学の高校では、カーストは「異性ウケ」のみによって決まる。
しかしこれは、あくまで特殊な環境下の「ノリ」に他ならない。
男子校/女子高には別のノリがあるし、会社に入ってもそこには別のノリがある。
卒業してなおこの「ノリ」にノれなかったことによるコンプレックスに支配されることは、僕の行動、思考が高校によって制限され続けることに他ならない。
僕が高校生活が終わるまでにするべきなのは、今の「ノリ」とそれに制約される自分の思考を言語化することだ。言語化によってのみ僕は新しい「ノリ」を手に入れる段階に入れる。
というところまでが第1章。内容濃いw
明日も読むために寝なきゃ。リスニングだけはやっとこ・・・